旅と旅行記とアジア 2009年度

写真展ポスター

狙いと願い
 旅という言葉を目にし、耳にして心動かされない人はいまい。ましてや、入学試験に通り、喜びと解放感に包まれている皆さんにとっては、「旅」は何よりもしてみたいことの一つとしてあるだろう。
 ところが、旅への憧れに比べ、旅行記に関心のある人はそれほど多くない。小説を読みたい人に比べれば確実に少ない。文学にあって紀行文学や旅行記は今なおマイナーな存在である。
 しかし、旅行記を文学の枠にはめ込むのは間違っている。旅行記は文学の範疇に収まるものではない。
 旅行記を読むとは、その基になった旅を読み、旅する人を読み、旅した場所・地域を読み、旅した時代を読むことなのである。 だから、旅行記は幾つもの学問分野の研究対象になるし、真に求められるのは学問分野の枠組みを超えた研究なのである。ここに旅行記研究の面白さと将来性がある。
 このことを授業での様々な営為を通して示すことによって、受講者に新鮮な驚きを感じてもらいたい。その驚きはこのような研究への関心を生むだけではない。喚起される知的好奇心は大学生活の様々な局面に適用され得る。学問研究に通底する事柄も具体的に知り得るからである。もちろん、新しい旅を創る上での幾つものヒントも習得できるはずである。
 以上がこのゼミの狙いであり、私の願いでもある。
 ではなぜアジアなのか。この点について約詑A京都大学で学んだことを糧として世界にはばたいていく皆さんにと
って、日本を含むアジアへの理解と関心を深めることがいよいよ求められる、そのような時代だからである。とりわけこの授業で取り上げる一九世紀のアジアは、二〇世紀や今日、あるいは未来のアジアそして世界の理解にさえも不可欠である。そして、それを臨場感・実感を伴う形で理解するには、実は良質の旅行記が何よりなのである。

素材の魅力と重要性
 次に、このような目的を達成するために扱う素材の魅力と重要性についてふれておこう。
 まず、取り上げる旅人は一八三一年に牧師の長女として英国北部バラブリッジに生まれ、一九〇四年にエディンバラで七二年の生涯を終えたイザベラ・バード。二二歳の時に病気回復の手段として医者に勧められて始めた海外の旅を、アジアに焦点を置くかたちで七〇歳まで続け、南アメリカを除く全大陸を旅した史上屈指の女性旅行家である(病弱で小柄な(149㎝)女性だった)。
 その旅は、五五歳の時、結婚五周年を目前に未亡人になって以後、いよいよ激しさを増し、激動のアジアに展開する。そしてその前半の旅ー小チベット・ペルシャ・クルディスタンの旅ーの後には、王立地理学協会の女性初の特別会員になるという栄誉を得ている。例外的なことだった。
 他方、主として取り上げる旅行記は、その彼女が再び旅先での死も覚悟して行った、日清戦争前後の三年二ヵ月に及ぶ極東の旅の成果の一つ The Yangtze Valley and Beyond、正確には私が翻訳したこの訳本『中国奥地紀行』(平凡社 東洋文庫)のうちの第二巻である。
 実質的には彼女の最後の著書である本書は、求められる講演を止め、ロンドンから父の終焉の地ウィトンの近くに居を移し、全力を傾注して漸く成った大著であり、彼女の類い稀なる旅行家、プログレッシヴな旅行家としての特質が余すところなく出た書物である。その意味で、ゼミの狙いに照らしても最もふさわしい。また、訳書第二巻には、伝道の旅仄・悵ヂ碓と冒険の旅という、彼女の旅を考える上で見逃せない二種類の旅が含まれている。

如何にして単なる輪読を超えるか
 本書の魅力は、様々な困難を突破して前人未到のチベット世界に到達した六ヵ月、七千キロに及んだ旅自体のすごさや、率直繊細で臨場感に満ちたその描写にある。したがってこのことを味わい楽しむには、旅行記を読むことがやはり基本になる。だが、授業ではただ読むだけではなく、私が訳書を産むに至るために行った知的営みとその果実を開示していくことによって、記述の内容を深く理解し、旅行記を真に読んでいくという方法をとる。そのために、私がこの仕事のために収集してきた地図その他の各種資料を見てもらったり、配布した古地図にバードの旅のルートを復原するという作業なども加味していく。ディスカッションも交えながら。
 だが、このことに関わってもう一つ行いたいことがある。それは、私が二〇〇五年に国立スコットランド図書館、二〇〇八年にイングランド北部のファウンテンズ・ホール(世界遺産)とスコットランドのダンディー大学で延べ四ヵ月にわたって開催していただいた写真展 In the Footsteps ofIsabella Bird: Adventures in Twin TimeTravelの成果と反響の一端を紹介することによって、前述した旅行記を読み、研究する面白さと拡がりを受講者に伝えることである。半世紀近くに及ぶバードの世界の今日の姿を、二〇年かけて撮ってきた写真は、twin time travelの産物であるが、旅行記に描かれた旅の時空を自らの旅の時空に重ね合わせる旅という意味で、この和製英語を私が編み出したのは、この『中国奥地紀行』翻訳のための旅においてであった。そしてまた揚子江流域の旅は、彼女にとっては新しい表現媒体として写真を駆使した唯一の旅でもあったのである。

写真展風景ーヨークシャーポスト記事ー

金坂 清則(かなさか きよのり)

人間・環境学研究科 教授 
1947年富山に生まれ大阪で育つ
京都大学文学研究科博士課程単位取得退学
専門は人文地理学
京都大学応援団顧問