日本語語彙の歴史 2010年度

■知っているようで、知らない日本語
 あなたは、トマトやポストのような色の乳幼児がベビーカーの中で笑っているのを見たことがあるだろうか。あるいは、新緑のような色の子どもが新生児室ですやすや眠っているのは?
 ベビーには少なくとも二つの色がある。口を除き表面の殆どが赤色でないのに「赤ちゃん」といい、どこも緑色でないのに「みどりご」という。髪や肌の色をとって「黒ちゃん」「はだご」などとは、普通、言わない。なぜか。かつてこの国の子どもの色はレッドやグリーンだったのか。日本人はずっと「赤ちゃん」「みどりご」と言い続けてきたのか。またどの土地でもそう呼ぶのか。
 「あか」を例にとると、例えば身の回りには実に多くの「あか」が存在する。「あかぎれ」「あかだな」「あかつち」「あかっぱじ」「あかはだ」「あかはだか」「あかむけ」「あからさま」…これらはみな「赤」の仲間だろうか?あるいは「垢」「閼伽」「明」や他の何かだろうか?また夜半過ぎから夜明け近くの暗い時間帯を「あかつき」といい、夜明け方、東の空に輝く金星を「あけのみょうじょう」という。この「あか」と「あけ」は赤の他人だろうか?

■「知」と「自由」のよろこび
 日頃何気なく使っている母国語も、ふと立ち止まってみれば分からないことばかりである。分かっているつもりが、実は何も分かってなどいない。そう気づくことが、学問の発端の一つである。そこから広く深く、認識を進めていく。この過程及び成果が「知る」ということだ。
 なんらのテキストも選択肢も与えられず、出席者は未知の世界に飛び立って行く。初めから答えが存在しないのは勿論、問いすら与えられない。おそらく「問い」と「正答」に慣れきっているであろう体に、この自由は少々応えるかもしれない。しかし、時には手探りで、時には先人達の偉大な研究成果の恩恵に与り、調査と考察を繰り返しながら、何かをつかみ取る。周囲の意見によって視界が開けることもある。この面白さは体験したものにしか分からないだろう。

■何を使い、何をするか
 幸い我が国には、多くの言語資料がある。例えば各時代の文字や言葉を取り扱った字書・辞典からは当時の理解を知ることができる。膨大な量の和歌や散文も貴重な資料である。三十一文字は心情の吐露や情景描写に大いに役立ってきたし、学問を生みもした。散文には宮廷生活や数々の戦の有様が、あるいは民間伝承が文字によって記されている。また寺や博士家では漢籍に文字や記号が刻まれた。これらの中には一次資料(同時代資料)として扱えるものもある。批判的な態度で接しさえすれば、大いに助けとなるだろう。
 言葉はひとりでに変わるのではない。人間が変えてゆくのだ。資料の細部と全体を照らし合わせ、一つ一つを丹念に丹念に調べることで、言葉の変化の歴史が浮かび上がってくる。
(文責:TA光田香住 )

大槻信准教授

文学研究科
専攻分野:国語学