計算機による社会経済シミュレーション 2007年度

人工市場システムU-Mart を稼動させている様子

ポケット・ゼミとの出会い
 私自身のポケット・ゼミとの出会いから紹介したい。
私の専門は情報系であるが平成15年に本学の学術情報メディアセンターに着任する前の約3年間、大学評価・学位授与機構(NIAD-UE)という組織で大学の評価の試行的な実施に関わる仕事をしていた。その間、教養教育はその重要性から、実情調査とそれに基づいて設計された評価との2段階で評価が実施された。実情調査では、各国立大学から寄せられた回答書をNIAD-UEの担当教員が総出で分析にあたった。私自身も当時90以上あった国立大学の回答を読ませて頂き、各大学、それぞれに教養教育に工夫を重ねていることを知った。
 そのなかでも、本学のポケット・ゼミはいかにも京大らしい科目であった。多くの大学は高等学校での教育との不連続性を減らし、いかにスムースに大学教育に繋ぐか、という形でカリキュラム展開を工夫をしていた。それに対して、本学はゼミナール形式という、大学での学びの最も特徴的なスタイルを用い、内容面でも1回生であることの
容赦もなく、研究活動に近い高レベルの内容で直球をぶつけるような科目を始めたというのである。一度は、このような科目を担当してみたいと感じていた。
 本学に着任し、工学研究科の北野正雄先生(北野先生のポケットゼミについては共通教育通信 Vol.1に紹介されている)ほかの先生方の薦めもあり、平成16年度からポケット・ゼミとして「計算機による社会・経済シミュレーション」という科目を始めた。

理系・文系・計算機
 私の専門は「工学系、情報系」であるが、どうも「情報」という言葉がつくと、自動的に「理工系」という判断をされる方が多いように感じる。しかし、情報システムの上で扱われる情報の中身はさまざまであり、実社会・生活と直接関わることが多いという点でも文系的色彩も強い。また、考えたい対象をモデルとして表現したり、モデルに
基づいて計算機シミュレーションをしたりという能力は、文系・理系を問わず複雑な対象を扱うためにはぜひ身に着けたいものである。
 幸い、私が所属する学術情報メディアセンターは教育用のPC端末を有する演習室が使える。そこで、計算機を活用しながら、文系・理系の垣根を下げるような授業を展開しようと考えた。科目名やシラバスの内容から、どうしても理工系の受講者が多いが、この3年間、文系の学生も少ないながら毎年、受講してくれている。

本読み・発表・プログラムコンテスト
 授業は大きく3つの段階に分けて展開している。最初の数回は社会や経済の問題とそれへの接近法としてのコンピュータシミュレーションの解説を私が講義する。工学や理学の分野ではコンピュータシミュレーションは不可欠の手法となっているが、「人」というやっかいな存在を抱える社会や経済の問題ではなかなかシミュレーションが難しい。しかしながら、現代社会が抱える多様なで複雑な問題への接近法として、シミュレーションという手法が注目されていることを紹介している。
 次のステップは研究書(和訳)を読んでの発表である。受講者を3~4人程度のグループに分け、シミュレーションで社会や経済の問題に接近する代表的な研究書を各チーム1冊、1ヶ月程度の準備期間で読んできてもらい、内容をパワーポイントでのスライドや書画カメラなどを利用しながら、他のメンバーに報告する。各チームには1コマまるごと与えられ、発表と討論に時間をかける。 
 研究書では、教科書と異なり研究者の問題意識や主張がストレートに述べられている一方、表現が整理できておらず難解な点、強すぎる主張なども見られる。これまで教科書を中心に勉強してきた新入生にはそこが新鮮なようである。また、学生による発表では、ややもすれば述べられている「結果」だけを紹介しがちになる。しかしながら研究では結論に至るプロセスのほうがむしろ重要であり、この点については、発表後の討論で質問を重ねて補ってゆく。
 最後のステップは人工市場システムを使った取引実験の体験である。人工市場とは株式市場などを仮想的に計算機の中に作り、市場について、シミュレーションによる実験的な研究を行おうというものである。授業では、私自身が参加している人工市場プロジェクト U-Mart で開発してきたシステムを利用している。
 このシステムの特徴は、人間自身が取引をプレーするゲーミングと、コンピュータプログラム(エージェント)で自動取引するエージェントシミュレーションの両方が行える呼ばれることである。システムには予め極めて単純な論理(例えば出鱈目に売り買いする、など)で取引するエージェントも提供されている。このシステムを用いて取引エージェントをプログラミングして、取引成績を競争して楽しもうという訳である。
 授業では、まず、取引所サーバに受講生全員がログインして手動で取引を体験する。このような体験は、解説だけでは理解することが難しい複雑な取引システムにおいて、どのような情報から何を決断すればよいのかということの理解の強力な手助けとなる。次に、各自が自分自身の取引戦略を考えてきてスライドで発表する。プログラミングの初心者が自分が作りたいものをプログラムとして実現することは、例えその中身が単純なものであっても意外に難しい。取引戦略を発表することで各自のアイデアをどれぐらい明確かつ論理的に語れるかが自覚され、また教員からもプログラミングの際のポイントとなる方法を指示できる。こうすることにより後のプログラミングが相当、楽になる。
 最後は、実際に作成した取引エージェントのプログラムを持ちよっての取引コンテストである。1回目のコンテストでは予期した通りに動かないものや、改善点が見つかるものも多い。また取引結果の芳しくない学生には悔しさも残る。そこで1回目のエージェントプログラムをすべて皆で共有した上で、エージェントの改良の機会を与え、2回目のコンテストを行う。
 この授業では、毎年、期末レポートには授業への感想を書いてもらっている。学生の皆さんからは盛り沢山な内容なのでたいへん忙しいが楽しかったという意見を頂いている。
 
国際会議を覗く
 幸いなことに、平成16年と18年には関係分野の国際会議を京大で開催する機会に恵まれた。平成16年には希望者に国際会議の見学をしてもらった。また、平成18年には、夏休み中の開催だったので希望者に会場係のアルバイトをしてもらった、研究の現場の真剣さと楽しさも見ていただけたようだ。

主体的な学びに向けて
 実はこの原稿の依頼を11月に受けたが、前期に行った授業風景の写真がなかった。そこで急遽18年度の受講生の方々に集まってもらって写真をとった(だから皆、冬服である)。折角の機会なので、少し皆さんとその後の大学での授業の様子などについて聞かせていただいた。ポケット・ゼミのような少人数での学習は楽しいが後期になるとそういうプログラムがないのが残念だという意見が多く寄せられた。もっとも、京大に平成15年に戻り、吉田南キャンパスに暮らすようになって、自身の学生時代との違いで気になっているのは「自主ゼミ」というビラなどを見かけなくなったことだ。学生の皆さんにはポケット・ゼミからさらに進んで主体的に学びの場を自ら創出することへの挑戦も期待したい。教員としては単に授業を提供するだけでなく、学生の皆さんが主体的に学ぶための環境づくりも重要ではないかと感じている。この授業のように情報機器を駆使して協調的な活動をするのに適した環境はお恥ずかしいことながら学術情報メディアセンターでも提供できないでいる。今後、より良い学習環境の創出にも力を注いでゆきたい。

喜多 一

所属:学術情報メディアセンター
職名:教授
生年:昭和34年
出身地:大阪府
専門分野:システム工学、人工知能、情報教育