中世思想ゼミナール 2007年度

■映画『薔薇の名前』
 『薔薇の名前』という映画を観たことがあるだろうか。1986年に封切られたジャン=ジャック・アノー監督の作品で、イタリアの記号論者ウンベルト・エーコ原作の同名の小説(1980年刊)をもとにした映画である。西洋中世14世紀の北イタリアの修道院で起こった連続殺人事件を修道士が解決するという物語だが、書物が主人公の映画とも言える(観ていない人のために、これ以上種明かしはしませんが)。と同時に、これは思想をめぐるドラマでもある。中世という時代状況のなかでも、人間たちは実にさまざまに異なった考え・思想を抱いていたのだということが直感的に分かる映画である。

■読みながら考える
 このゼミナールのスタイルは「中世的」である。対象がそうだというだけでなく、思考のための方法が中世的なのである。西洋中世はキリスト教の圧倒的な影響下にあったために、人々は聖書という権威ある「神の書物」を出発点としてものを考えてきた。思想のはじまりは「権威をいったん認めること」だというのは西洋中世の大きな特徴なのである。このような考えを重視して、授業では中世の書物を少しずつ読んでいる。アウグスティヌス、アンセルムス、アベラール、トマス・アクィナス、クザーヌスなどの古典的なテキストに触れることで、参加者はそれまで知らなかった新しい世界を発見することになる。しかし他方で、『薔薇の名前』の登場人物たちはみなキリスト教徒として聖書の権威を信じていたという点で共通しているはずなのに、そこから結果として出てきた彼らの思想は神秘主義的で狂信的なものから経験と論理を重視した合理主義的なものまで、実に大きな振幅を持っていた。中世においても最後は自分の頭で考えるほかなかったのである。このゼミナールでも、古典的書物を知るというだけではなく、その書物が提起している課題に「それじゃあなた自身はどう思いますか」という問いかけが頻繁になされることになる。

■議論をするということ
 だから、時には読んでいる書物を少し離れて、参加者の間で考えが違っていることがはっきりして議論が巻き起こることにもなる。そんなとき、私は参加者が「教えて欲しい」「決着をつけて欲しい」と私に希望しないようにお願いしている。そうではなく「教師は討論の交通整理役になりますから」と言うことにしている。世の中には簡単に答えのでない難問がたくさんある。それでも「なぜだろうか」「どうすればいいのだろう」と問わざるを得ないのが人間というものらしいから、正解がすぐには見つからない場合に探求を簡単に放棄するのではなく、踏みとどまって議論をしてゆくための方法を身につけることが大事だと思う。この「討論」という学問の方法が整備され組織化されたのも、西洋中世の大学の特徴の一つであった。中世的なスタイルは古くさいものに思えるかもしれないが、忘れてはならない知の手法なのである。

川添信介教授

文学研究科思想文化学専攻
専門分野:西洋中世のスコラ哲学