荘子の思想について考える 2012年度

 このゼミナールでは、『荘子』という不思議な書物について、読んで考えたことを発表し合い、「そういうことを考えるんだ」ということを知る、それがメインとなります。
 「そういうことを考えるんだ」というのは、もちろん『荘子』という書物がいろいろなことを考えた、その内容について言うのはもちろんですが、それを読んだ現代の人間がどのようなことを考えるのかということを、いろいろな(学部の)学生諸氏の考えを聞くことによって知る、という側面もあります。もちろん、わたくしは中国哲学が専門ですから、その発言がどうして現れたのか、その後どんな発想を生んだのかということを紹介することもあります。しかし、もっとも重要視するのは、「そういうことを考えるんだ」というその部分です。
 『荘子』、それもゼミナールで扱う「内篇」において重要な思想は、「万物斉同」です。冒頭に書いた「不思議な」というのは、この思想が念頭にあります。「万物斉同」とは、かみくだいて言ってしまえば、「なんでもかんでもみなおなじ」ということです。りんごとみかんはおなじです。あなたとわたしはおなじです。あなたと世界もおなじです。もちろん、ここで「おなじ」というのがどのような意味なのかは問題になりますが、ともかく「同じであると考えてみよう」というのが『荘子』の考えです。
 簡単に言いますと、いまこの文章を読んでいるみなさんは、たぶんパソコンに向かっています。見ている「画面」は、ディスプレイの外に見えている風景(本棚でしょうか、壁とか、台所とか、あるいは机に積んである本とか、文房具とか......)から区別して皆さんには知覚されているでしょう。それがいけない!と『荘子』は言います。それが「万物斉同」でない世界のとらえ方です。
 「だって、色もちがうし形もちがう。どう見たって同じとは見えない。」
 それが通常の見方です。しかし『荘子』は、それを、「均質な、一様な世界として見なさい」と迫ります。そして、外界における「区別」、要するに「ものとものとのさかいめ」をなくして見なさい、ということから、さらに、自分と外界の区別をなくしなさい、ということを語ります。そして最後には、「世界にはそもそも何もないんだ」ということが究極の知とされています。(もちろん、それは大変難しいことだと思います。ですから、『荘子』も、「まあ、それは無理だろうから、そこまでいかなくても、ものの価値にはちがいはない、ぐらいはできるだろう」と譲歩してくれています。)
 そして、これが単なる思弁的な発想でないところが、『荘子』のまた不思議なところです。「世界は実は一様なのだ」ということの根拠の一つとして、以下のような話があがっています。「空は青い。でもあれは本当に青いんだろうか。ずっと遠いところなので青く見えているだけではないのか。ひょっとしたら、我々の世界もずっと遠いところからみたら真っ青なのではないか?」
 こういう『荘子』の持っている想像力や、寓話のおもしろさも『荘子』の魅力の一つですが、そういうおもしろさを味わいつつ、『荘子』の話を「そういうことを考えるんだ」と、さらに友人達の発言を「そういうことを考えるんだ」と楽しんでもらえればと思います。
 ということで、 自分以外の人が考えたことを知るのが好きな人はどうぞ。そういうことがきらいな人(それはそれであるべき一つの姿です。極端に言えば、本当の哲学者はそういう人かもしれません。)は、あまりむいていませんので、その旨ご承知おきください。なお、言うまでもありませんが、授業にのぞむためには、「自分で考えたこと」を発表する必要がありますのでお忘れなく。

宇佐美 文理

文学研究科 教授
中国哲学史専攻