精神分析を知り、心を知る 2013年度

 心はギリシャ時代にはその存在が確信されていました。横隔膜が上下する様子が心の活動であると考えられていたのです。うつ病は黒化した胆汁液がその心を侵して発症すると考えられていました。それに比べて、頭内の上半分を占める肉の塊は一体何なのか、誰もが首を傾げていました。今日、脳は神経系が集合した実質臓器であり、その活動様式を解明することが心の解明につながると意欲的に研究されています。たとえばうつ病は脳内物質のセロトニンの代謝障害という仮説の下、研究されました。しかし最近はセロトニンではなく、グルタミン酸仮説が出てきています。このように脳神経機能の解明は脳内の化学物質や細胞生理についての豊饒な知見をもたらしてくれますが、心そのものについては語ってくれません。 
 それはなぜなのでしょうか。また、心はどこにあるのでしょうか。心という実質臓器が存在しないことは明白ですが、ひとりの人間として私たちが日々を生きるという体験をしているのは心においてです。また、私たちが私たちを自分自身であると実感しているのも、私たちの心においてです。「私たちの心」、「私たちの思い」と私たちが語るとき、私たちは私たちの胸あたりを指すでしょう。「私たちの心」と言いつつ頭を指す人はいないでしょう。少なくとも、私は会ったことがありません。しかし身体生理学上は頭を指すのが正しいのです。
心は私たちの主体という感覚の座です。生きる、感じる、考えるということはまったく主観的な体験であり、その主観的な体験の座が心なのです。ですから、心を理解することとは、主体の体験を感知することなのです。しかしながら、心は見ることも触ることも嗅ぐこともできません。その心にどうしたら、私たちは出会い、感知し、理解できるのでしょうか。
 約120年前のオーストリア・ウィーンで神経内科の開業医フロイト,S.は、ヒステリーという特異な心身の病の背後にある心に偶然出会ったのです。フロイトは心に出会う技法を洗練させ、精神分析という方法を創設しました。この方法によって人類は、心を系統的に理解する方法を手に入れました。その結果についてフロイトは、コペルニクスの地動説、ダーウィンの進化論と並び、ヒトの驕りへの打撃、すなわち宇宙の支配者でもなければ、生物の支配者でもなく、それどころかおのれの心の支配者ではないことが明らかにされたと述べました。
 私たちは心について知っているようで知りません。とりわけ自分自身の心についてそうなのです。心を知れば知るほど、今この文章を読んでいるその私たちが心の主人公なのかが疑わしくならざるを得ないのです。「心の中ではこんなことを思っているんだ」、「認めたくないが、こんな自分がいる」、「そうか、これが自分の思いなのだ」といった心についての発見を誰もがしてきたことでしょう。心は主体の座であるにもかかわらず、たびたび私たちの予定調和を拒みます。
 このゼミでは精神分析の方法やそれが提出した知見を知っていきながら、心について知っていこうという試みです。ここでの“知る”とは、記憶の在庫となる知識を増やすことではなく、主体として“腑に落ちる”理解を得ようとのことです。そのためには、フロイトが経験したように、心を知ることと精神分析を知ることを織り交ぜて練り上げていく過程をたどる必要があるでしょう。おのれの心についてのたったひとつの“腑に落ちる”理解が、百万の知識に勝ることを体験できるかもしれません。

松木 邦裕