ダンテ『神曲』地獄篇ゼミナール 2011年度

 ダンテとか『神曲』とか言うと、とにもかくにもムズカシそう…という印象を抱く人が多いことと思う。実際、難解ではある。しかし、そのことと、そうした難解な作品を扱う授業がムズカシイかどうかは別のハナシである。

 本ゼミの担当教員は難しいものが大嫌い…というか、より正確には、明解さに欠ける話が嫌いである。あまりに抽象的で分かりにくい議論には一種の胡散臭さがつきまとう。作品の場合も、また文学に関する議論においても然りで、ムズカシく感じられるのがこちらの理解力の不足によるのか、それとも相手のあり方にそもそも問題があるせいなのか、そのあたりはハッキリさせる方がよい。残念なことに人文学の分野では、何やら先端的専門用語らしき横文字コトバや、どうもインテリの間では著名であるらしく、従って天下の京大生でありながら知らないのは恥ずかしいことであるらしき外国人名等を並べることによって、何やらムズカシ気な雰囲気を醸し出し、人をケムに巻こうとする例が少なくないからである。

 『神曲』の場合、難解であるのは事実ながら、その難解さの源は、まず第一にダンテの常識とわれわれ現代の日本人の常識が大きく隔たっている点にある。無理もない。なにせ相手は、われわれにとって別世界である中世のイタリア都市国家にどっぷりと浸って生きており、作品もまた、そういう別世界の住人のことだけを念頭に置いて書いていた。言うまでもなく、日本という土地など、その存在さえ知らなければ、21世紀の世界も想像できなかった人間である。

 およそ文学作品は何であれ作者から読者へのコミュニケーションの一形態であるから、彼我の持つ常識の間にこれほど大きな隔たりがあれば、話が通じにくくなるのは当然だろう。だから、「急がば回れ」で、まずはダンテの生きていた世界をある程度知っておかなくてはならないという理屈になる。

 ところが、この《ダンテの生きていた世界》なるものが、また我々の生きている世界からあまりにかけ離れているために、これもまた簡単ではない。では、そんな苦労をしてまで『神曲』を読む価値はあるのだろうか?あると言えばあるし、ないと言えばない。

 ひとつ言えるのは、《ダンテの生きていた世界》、すなわちイタリアの中世都市国家というのが、それ自体大変魅力に富んだ世界であったことと、それを知ろうとする時、そのために非常に有益な情報を提供してくれるのが、他ならぬダンテの『神曲』なのだという逆説的な真実である。文学と歴史の間でボールのやり取りをしながら、そのどちらに関しても認識を深めていく…つまりは、中世末期のイタリアという異文化世界が少しずつ明解になっていくプロセスを経験するのは非常に楽しい。これからイタリアに旅行しようと考えている人にも是非お勧めしたいゼミである。

天野 惠

文学研究科、教授
1952年生まれ、岐阜市出身
専門分野:16世紀のイタリア文学
趣味:もともとはイタリア語が趣味だったのだが。