第1回 初修外国語担当教員による座談会

初修外国語、英語以外にもう一つやる意味というようなところで言おうとするんだけども、どうしても今の話から分かる通り、最初イタリア語は簡単だと言われたとしても、英語しか知らない学生にとっては、すでに動詞の変化自体でそれを覚えていくことがなかなかブレーキがかかる学生も多かったりしますし、最初は急な坂と言われるロシア語とアラビア語に関して、もっと皆苦労するんです。それ程苦労してなぜするのかということの説明は、私はなんぼ考えても出てこないんです。
公式には、英語的なものの見方とは違ったものの見方、考え方をするということが、この世界に対してあるいは自分自身のことを考えるにしても奥行きのある、奥行きっていうのは二つの視点があって初めて出来上がってくるものですので、奥行きのあるものの見方が出来る基盤であると言えます。それを別の言い方をすると多極的な世界、一極集中ではない世界とも言えますが、複眼的なもうひとつの視点を持つぐらいまでに、フランス語もそうですけども、英語以外の別の言語を上達するのにはかなりの苦労がいるんですね。1年生でやったからといって、一年間頑張ったからといって、なかなか英語以外のものの見方がすぐできるようになるかというとそうでもない。
ただ、京都大学としては、おそらくもしその学生が今後もっとやって行こうと思った時に、その出発点としての基盤ができているというところまでは提供したいということです。
もう一つ、法学部にしろ、経済学部にしろ、とりわけ文学部なんかそうですけども、英語以外のもう一つの言語がある意味専門基礎でもあるという学生もあることも、京都大学としては忘れてはいけないということもあります。またちょっと冗談めかして言うと、頭の訓練というか頭の体操というか、これは以前、三輪先生か理系の先生に聞いたんだと僕は記憶してるんだけれども、格変化なり色んな動詞の変化がある外国語をやることで頭がリフレッシュして、構造的にものを考えるような訓練ができるんです。ですから何かに役立つために外国語をやるんだということよりは自分の頭を鍛えるというようなぐらいのものの見方もあるのかなと思います。
そうしますと、それぞれの言語、アラビア語の話もありましたけど、イタリア語のイタリア語性、ロシア語のロシア語性、それぞれ独自の複雑さを持っていて、それは英語にはない魅力ですので、そういった形で楽しむというのもあるのかなという気もします。
どうですか、そのへん、服部先生。

まず最初多賀先生もおっしゃったし、三輪先生がおっしゃる通りです。数学的な比喩でいうと、普通の大多数の学生諸君は普段日本語を話す環境で小さい時から大人になってきて、まず日本語が1つありますよね。それだけだったら数学でいう点ですよね。中学校で英語を習ったことによって線になるわけですよね。
でももう一つ何かを習うと面ができるわけで、日本語と英語とフランス語ならフランス語で面が出来る。そしたら安定した土台ができるわけです。そういう知的な、これから知的なお城をつくる上で土台ができるという点ではいいということは当然わかる。これはあまりにも抽象的すぎるので。
まず今の日本っていうのは非常にある意味、若い中学生、高校生が、僕らが昔そうだった頃より外国に対する興味が少なくなっていると、留学に対する関心も減ってると言われますが、いわゆる平和の時代だからかもしれないですが、大きな波が外国から押し寄せてくる時ってそうは言ってられないですよね。
昔、江戸時代の最後の幕末のころ、江戸幕府は、最初、鎖国してましたから、外国語もオランダ語しかやってないわけで、ヨーロッパの中で。ところが文化五年、1808年です。江戸幕府がオランダ語の通訳たちに、幕府の役人ですが、これからはオランダ語だけじゃなくて、ロシア語と英語と二つの外国語を学べというふうに命令を、幕府が通達を出すんです。英露兼修ですね。ですから英語だけでもないしロシア語だけでもない。英語とロシア語を二つやれと。オランダ語の通訳家に、外国語の専門家に対して英語とロシア語を両方勉強しろという命令を出すわけです。
つまり一つではどうにもならんということは、危機的な状況になると当然皆わかると思うんですよ。議論しなければいけない、平和の時代に住んでいて高校生諸君も楽しく平和に暮らしているからだろうって。少し世界が荒波にもまれたら、どうも何かがあった時、日本語だけですまないだろうと直感的に分かるはずなんですね。
だけど、二つ目の外国語を学んだとしてそれがどうかって時に、今すぐ高度な実力、高度な実用の仕方はつくわけないんです。やっぱり難しいんです。
自分にとって役に立つ事、役に立つという点では、二つのレベルに役に立つと考える必要があって、高校生は車を運転しないから分からないかもしれませんが、ヘッドライトで、遠くを照らすヘッドライトと近くを照らすヘッドライトがありますね?英語を今すぐ勉強するというのは大事なことで、我々だって英語を要らないと思いませんし、どこへ行っても英語はないと困るので、英語は一生懸命勉強したいと思いますが、英語だけではやはり困るので、もうひとつ何かするということが、将来、社会に出て企業に勤める場合もそうですし、団体の役員になる、職員になる場合もそうだろうし、研究者になるにもそうですが、将来何かある、今と違った状況に自分が放り込まれたときに、自分が何か始めなければいけない時に、これは文系と理系を分ける必要はない、文系だろうが理系だろうが今と違う状況に放り込まれて何かをやらなきゃいけない時に何かを、ドイツ語でも、アラビア語でも、フランス語でも、中国語でも、ロシア語でもなんでもいいんですが、それを自分でまたどうしても今の部署で必要だというときに、家に例えた時にどこが玄関か分からなかったらどうしようもないわけです。
ところが大学1年生のときにここが入口です。ここの玄関です。今玄関のドアの開け方が、これがドアです、開けて中が見えます。そこに入るか入らないかは君の自由ですが、開けて中だけ見ておいてくださいとそこまで教わっておくと、将来、企業に入るなりあるいはどこかの研究機関に入ったりして、もしそれが必要な時にどこが玄関さえ分かっていれば自分でそこを開けて中へずかずか行けるわけです。それすら分からないとどうしようもない。
今すぐ役立つ実力とか実用力がつかなくてもいいんだけれども、何か将来自分が使おうと思った時に、パソコンでもどれが電源ってそれも分からなかったらどうしようもないわけです。まず最初の一歩、ここを開けたら後は自分でやれるというところさえ分かっていればいいので、これは文系・理系問わずやっとく意味は必ずあるわけです。それをできるのは大学に入った1年生の時しかないので、ここでもし必要だった時、次にどこを叩けばいいかというのを分かっている、すごく大事で、1年やって文字を覚えるだけですよっていうかもしれません。
文字の読める、読めないは、読めない人と読める人では雲泥の差があるんです。例えば英語だけローマ字が読めて英語できればいいじゃないかと。でも、どこ行っても例えば道路標識とか、駅や街中を歩いていても、韓国に行ってもそうですね、ハングルしか書いてなかったら英語だけだと困るし、ロシアに行ってもロシア文字しか書いてなかったら困るし。文字が読めることっていうのは実はものすごい実力なんです。文字しか覚えなかったというかもしれませんが、文字を覚えておいてそしてここから行けば入り口であるということを聞いておけば、後は自分でやれるんで、そういう意味で、一つ、知らない英語以外の外国語、何でもいいから一つやっておくということが、ある意味実用的に役立つことなんです。それに、今すぐ役立つものというのは何にせよ早く陳腐化するんですよね。そこだけまず言っておきたいと思います。
私の場合、今でも、ロシア語は意味は分からないのですが読めるんですよね。
大学1年のときに1年間一生懸命やったから、今でも読める。モスクワで、どこそこへ地下鉄で来いと言われても、キーワードを教えてもらっておけば、どこの駅で乗り換えて、次はどの駅っていうときに、ロシア語で探してここだなっていうのはできる。
字が読めるってすごい。